よく、「横浜の人はクールだ」と言われます。(冷めている、冷静という意味合いで)
むしろ私は、アツい人間だと自分では思っているのですが・・・。
私の両親は、静岡県と岐阜県の出身なので、代々横浜の人たちとは違うのでしょうか?
しかし、横浜の人が本当にクールだとしたら、
その理由は、横浜の歴史にあるように思います。
横浜は、一見オシャレできれいな街のように思われてるのですが、実は時代に翻弄され続けてきた歴史があります。
横浜はもともと、100戸ほどからなる「横浜村」という寒村でした。
村民は、漁業と農業で細々と暮らしていたようです。
(写真はP.J.ロシエ撮影、横浜開港資料館蔵)
それが、1854年のペリーの来航で様変わりするのですが、なぜ横浜が開港の地に選ばれたのか?
それは、外国人とのトラブルを避けたい江戸幕府は、東海道に直結し、日本人の多い神奈川宿や神奈川湊を避け、あえてこの寒村を選んだようです。
犠牲になった、というのは言い過ぎかも知れませんが、得体の知れない外国人が大量に流れ込んで来ると知った、当時の村民のパニックは計り知れなかったと思います。
参考:「なぜ横浜は発展したのか」
そして、横浜で日米平和条約が結ばれ、
海外からの鉄道や水道設備などの技術、パンやビールなどの食べ物、野球や劇場などの文化が、横浜を経由して日本全国に伝わりました。
一気にヒト・モノ・カネが流れ込み、1889年には、人口は何と12万人にふくれあがります。
もともとあった「横浜村」は、ほぼ跡形もなく姿を変えてしまったことが想像できるかと思います。
こうして、寒村から豊かな国際都市へと変貌を遂げた横浜ですが、
1923年の 関東大震災で、壊滅的なダメージを受けます。
倒壊した家屋数は、東京の12,000棟を上回り、横浜は16,000棟だったそうです。横浜市の方が面積が小さい事を考えると、特に集中的なダメージだったことが分かります。
その震災からやっと復興したのも束の間。
今度は太平洋戦争が起こり、1945年5月の横浜大空襲で、約44万個の焼夷弾が投下され、焼け野原となります。1万人近くの市民が亡くなりました。
そして終戦。
横浜の焼け残った施設や湾岸部の多くは連合国軍に接収されます。1945年8月以降、10万人もの外国人兵士が上陸し、横浜は基地の町と化します。
上陸後の10日間だけで1136件の強姦事件が起こり、横浜と横須賀基地周辺に被害が集中しました。横浜ではその後の9月だけでも119件が報告されていますが、通報もされないケースの方が多かったようです。(参考wikipedia)
こういった進駐軍による性犯罪を防ぐことを主な目的として慰安所が設置され、最大5万5000人の慰安婦が配置されます。根岸の外国人墓地には、娼婦と外国人との間にできたと思われる嬰児が無数に葬られていたそうです。
この慰安所は1年足らずで廃止されますが、その後進駐軍による性犯罪は約10倍に急増しました(参考wikipedia)。
また、慰安所が解体されてからも、多くの娼婦や、戦争で家も夫も失くした女性が横浜に残り、京浜急行の黄金町駅~日の出町駅のエリアには最盛期には250件の「ちょんの間」が軒をつらね、2005年頃に一層されるまで営業していました。この辺りは戦後、麻薬売買のメッカでもあったそうです。
横浜市と警察による一掃作戦により、黄金町駅周辺は、今やすっかり若者向けのオシャレなカフェやアトリエに姿を変えましたが、子供の頃から京急沿線に住んでいた私は、比較的最近まで、この辺りには戦後の貧困や裏社会の匂いのする、すさんだ横浜の顔が残っていたのを憶えています。
ちょっと暗くなってしまいましたが、何が言いたいのかというと、横浜はこの170年の間に、時代に翻弄され続けてきたのです。
たった100戸の寒村から国際都市へと急発展したものの、関東大震災によって壊滅、そこから復興した頃に戦争での大空襲でまた壊滅、進駐軍による基地化と犯罪の多発、そして今はクリーンな横浜へと、めまぐるしい変化がありました。
あまりに衝撃的な体験をすると、人は自分の心を守るため、感じることを拒否し、感覚をマヒさせることがあります。
ましてや、これだけの短期間に連続して振り回され続けると、いちいち心が反応するのを拒否してしまうのも無理のない事かも知れません。
横浜の人が「クール」と言われるのはもしかすると、そういった時代に翻弄され続けた、どこか悲しげな横浜の歴史が背景にあるのかも知れません。